演奏会【物議を醸したR・シュトラウスの歌劇『影のない女』(二期会公演) 】
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公演概要
二期会公演
R.シュトラウス:歌劇『影のない女』
10/27(日)東京文化会館大ホール(楽日)
皇帝:樋口達哉
皇后:渡邊仁美
乳母:橋爪ゆか
バラク:河野鉄平
バラクの妻:田崎尚美
指揮:アレホ・ペレス
管弦楽:東京交響楽団
合唱:二期会合唱団
演出:ペーター・コンヴィチュニー
はじめに
久方ぶりの音楽投稿です。
偉大な指揮者フランツの息子、ペーター・コンヴィチュニー演出による二期会公演、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『影のない女』に行ってまいりました。初日から大ブーイングや「金返せ!」が飛び交うという、相当な物議を醸している注目公演の楽日になります。
この公演は、ドイツのボン歌劇場との共同制作で、元々2022年の冬に東京でワールドプレミア上演が予定されてましたが、コロナ禍で一度お流れになっています。
余談ですが、代替として上演された宮本亞門演出『フィガロの結婚』(2002年初演) に行きました。やはり会場はガラガラ。
それでも愛猫に『フィガロ』という名前をつけるくらい、この名作に思い入れがありそうな川瀬賢太郎さんの音楽は、実に美しく慈愛に満ちており、ホロホロと泣けた名演であったことを良く覚えております。
さて『影のない女』。このオペラに接するのは初めてです。
あまり知られてないシュトラウスの秘曲に『「影のない女」による交響的幻想曲』ってのがあって、ジェフリー・テイトとアンドリス・ネルソンスの演奏が自分のライブラリに入っています。この曲はオペラの聴きどころを20分ほどに凝縮させた劇的かつ流麗、甘美な管弦楽曲で、割と好んで聴いておりました。
公演に行くことになってからは、シノーポリ盤、ショルティ盤、カラヤンのウィーン国立歌劇場ライブ(1964年、モノラル)の全曲盤を仕事中のBGMとして繰り返し聴いて予習。
確かに長い作品ですが『ばらの騎士』や『アラベラ』の流れに緊張感を加えた、シュトラウス節全開の名作。場面転換の音楽が良いアクセント。
そして、事前にこのオペラのリブレット訳詞全文を読んでから本番に臨んでいます。
アレホ・ペレス(ブラボー)
公演パンフ『どうすれば「影のない女」を観客のために救えるのか』
今回の公演で公表されているあらすじの前置きだけ下記にピックアップします。文章はドラマトゥルク(どういう役割だろう?リブレットを担当してそう)のベッティーナ・バルツ。
『前置き このオペラは現実の物語ではなく、象徴的な出来事を描いている。筋の通った物語ではなく、架空の二層の世界で演じられる悪夢のようなエピソードであり、そのルールはどこにも制定されておらず、理解不能である。人物、場所、ルールは、夢の中のように流動的で変化する。
このプロダクションでは、妻が夫に隷属することを賛美し、美化するような筋書きのない終幕のフィナーレを排除し、代わりに元の第2幕のシーンを最後に置く皮肉な場面で終わる』
自分が観たのは楽日なので、物議となったSNS上での批判は目にしてました。でも、読み替え演出にブーイングするのはよくある話なので、どんな批判かは確認してません。当日になってから、この前置きを含むきあらすじを読んだわけです。
尚、あらすじ全文は以下にて公開されています。リンクから「作品紹介」のタブを選択してください。
影のない女|東京二期会オペラ劇場 -東京二期会ホームページ-
劇的に改変されているあらすじの内容に驚き、公演パンフ(二期会愛好会会員なので無料の引換券がチケットについてくる)を拡げると、そこには先のベッティーナ・バルツによる驚きの寄稿文『どうすれば「影のない女」を観客のために救えるのか』が掲載されておりました。
『影』が女性が子供を産むことを表しているのは公然のことですが、ホフマンスタールがあえて影と暗喩しているのに、わざわざそれを白日の下に晒して批判、女性蔑視だとおっしゃっている。
今般の世界的なLGBTの風潮では、確かにそういう視点もあるかもしれないですが、現代作品ではなく20世紀初頭の作品を捕まえて現代のモノサシで批判することはどうなんでしょう。
これをやり始めたら、音楽だけではなく様々なジャンルの過去の古典名作が引っかかる。実際、このヒステリックにも取れる文章の後半では『魔笛』まで批判の対象になってます。
以下にもう少し抜粋します。
『今日の我々が道徳的に納得できる上演は、読み替えによってのみ可能になる』
『・・この作品がなぜ、そんな手入れを必要とするほど救いがたい出来損ないになってしまったのかを検討したい』
『しかし作家(ホフマンスタール)のこのナンセンスな作品には(中略)子を産めない、あるいは産みたくないすべての女を、役立たずで下等な人間のくずと貶めるのが狙いだ』
いやいやいや、影のない女はハッピーエンドでほっこりする話ですよ。人間のクズとか言ってないし。そこまでこの作品を嫌うなら仕事を引き受けなければいいのに、と思った。
胎児がフィーチャーされている遺伝子操作研究所のセット
コンヴィチュニーの演出
この『影のない女』はとても長いので慣習的なカットがあります。そういうカットなら良いのですが、この公演では、第三幕まであるオペラが切り張りされて二部構成、全6場に改変されています。
終幕は、あのハッピーエンドを導く第三幕のラストがカットされて、ドタバタした第二幕のラストがくっつけられています。それは『ばらの騎士』のラストから、あの陶酔の三重唱を抜くようなもの。これは許しがたい。
コンヴィチュニーの演出(とベッティーナ・バルツの台本)による舞台は、このような音楽のパッチワーク、そしてオリジナルへの敬意無きリブレットの大改変(アドリブと思われる日本語のやりとりを含む)、そして何より、女性蔑視を回避したと言うわりに、余計に醜悪な女性蔑視を強調することになったグロテスクにも受け取れる演出でした。
皇妃やバラクの妻は最初から最後までずっとお腹が大きいまま。しかも文章にすらしたくないアラレもない恰好をさせたり、皇帝夫妻とバラク夫妻がパートナーを変えて○わって子供を産むとかありえないでしょう。
最後だって、皇妃もバラクの妻も撃たれて○んでしまう。謎展開の演出意図が未だにわからない。
場面も地下駐車場のギャングの取引現場、上記写真の遺伝子操作研究所、心理療法の治療所、そして終幕の高級レストラン、いずれも思いつきっぽくて脈絡がありません。

高級レストラン。このスグあとめちゃくちゃなことに
ただし、あまりにリベラル過多な女性蔑視主張と舞台の実際が矛盾していたので非難めいて書いてしまいましたが、自分は歌詞を含む音楽さえ改変なく響いていれば面白がっていたと思います。実際、この先どうなるんだろうと食い入るように舞台を観てましたから。
最近、睡眠障害が酷く、コンサートなどでも集中できないことが多いなか、頭がバキバキに冴えていたのがこの演出のおかげであることは否定しません。
余談ながら、1980年頃に4年間続いた、演劇畑出身のパトリス・シェローが読み替え演出したバイロイト音楽祭の『ニーベルングの指環』公演(指揮はピエール・ブーレーズ)が、世界中を巻き込んだ大騒動となりました。

パトリス・シェロー演出の舞台美術
しかし、黒スーツを着用するなど多少現代風にアレンジしただけで、現代の視点では実に古典的な演出であって騒ぐ人などおりません。この写真を見ていただければわかるように、荘厳でカッコいい舞台だったようです。
その後、サヴァリッシュ指揮のバイエルン国立歌劇場におけるスターウォーズ的な演出の指環公演があるなど、演出の読み替え度数は少しづつ数値を上げて現代に至ります。
その一方で、後にゲオルク・ショルティがバイロイトに登壇した年、ワルキューレが側面に羽が付いた例の兜を被るなど、神話的な設定や美術を重視した保守的な指環演出はほとんど話題にもならず、一年だけで終わってしまいました(ショルティがバイロイトを指揮した実績を作るための一年限定だった可能性もあります)。
音楽陣
最後になりましたが、音楽陣は素晴らしかった。
まず、自分は2023年の新国立劇場『タンホイザー』以来となるアレホ・ペレス率いる東京交響楽団がすばらしい。演出や字幕を見ないように目を閉じれば、シュトラウスの豊潤な音楽が東京文化会館の大ホールに満ちている。(いっそ演奏会形式で聴きたい)
そして、歌手は何と言ってもバラクの妻役の田崎尚美さん。
あるアマチュア合唱団の夏の公演でエリーザベト(タンホイザー)のアリアを聴いて以来、ちょっとしたファン。その公演後、田崎先生が出られる神奈川フィルの第400回記念公演(11月)のヴェルレクのチケットをすぐに買っています。突き抜けるようなリ・ベラメの圧唱に期待が高まる。
以上、
おわり